人間とは、そういう生き物だったのかもしれない


アメリカがシリアを空爆したというニュースを見た後で、私は布を裁断する準備をした

このニュースにおける他人の意見をちょろちょろっと読んで、LINE返ってこないなー、何かまずいこと打ったかなー、とか考えながら、裁断面倒だなーと思って、今ブログを書いている


私はシリアには行ったことがないし、世界地図出されてシリア指せって言われたら指せないし、ロシアが中国がアメリカが、というシリアを取り巻く各国の思惑のようなものも、ほとんどピンと来ていない

目の前の布の方がよほどピンと来ている


平和ってのは何なのかな
惨状を目の当たりにしていないということだろうか
目の当たりにしていなければ、つまり平和ということになるんだろうか

世界は色を変えているだけで、平和というのは本当は存在していなのではないかと思う
その色は誰が変えてるのかって、誰ってことはなく、戦争なんかまるで関係ないという風に布を裁断しようという、この私を含めた全員が変えているのだろう
武力を否定し世界平和を唱えるあいつも、正義を唱えて武器を手に取ったどっかのやつも、戦争に何の興味関心もないやんちゃ坊主も、実は世界を先導し扇動している

 
戦争に反対するんだけれども、世界は何だか怪しげな動きを見せていて、それは政権だとか国を越えて、人間が醸し出す雰囲気みたいなものなんじゃないですか
反対しているんだけれども、世界をそのように動かしているんじゃないですか
罪のないような顔してるけど、誰それの罪だと言うけれど、みんな罪を背負っているんじゃないですか


平和というのはもしかしたら、己の罪から目を背けることなのかもしれない
しかし罪を知覚したとして、世界はそのように動いていくのだろうから、ここは諦めて布の裁断でもしようかなと思います

 

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2017年にゴーサインを出した覚えはない


気が付くと、前々回の更新から半年以上も経っているという


最近の私は、新明解国語辞典、それも限定版の青色を買って、喜んでいます
それを三省堂国語辞典と並べて枕元に置いてですね、まあ読んだり読まなかったりですよ
今は現代国語例解辞典なるものが欲しいです
語彙が増えたなっていう実感は全くないですね

そもそも何で新明解国語辞典を買ったかって言う話なんですけれど。
あなたは『光風』『薫風』という言葉をご存知ですか。
ご存知なければお手元の辞書をどうぞ、ってな感じなんですが。
お手元に辞書、ございますか。
私は手元に、三省堂国語辞典と、ベネッセの表現読解国語辞典があったんですけれども。
ネットで偶然この言葉を知って、これは何とか記憶しておきたい、印でも付けておこうかと辞書を開いたんです。
引いてみると、載ってはいたんですけどね。
片方ずつしか載っていないわけですよ。
馬鹿野郎! そんなことが許されるのか! と。
私は何だかよくわからないんだけれども、【光風】と【薫風】という言葉に、その時エラい感銘を受けていましたから。
許せなくて、本屋に駆け込んだんです。
新明解国語辞典は以前から欲しかったんですけどね、引いてみると、この辞書にはどっちも載っているわけです。
(三省堂国語辞典には光風霽月は載っているが、光風という見出しはない)
しかも限定版の青ってのが結構綺麗な色で。
これはもう買うしかないって思って、買いました。

ところで、『薫風』の『薫』の字が、『くんせい』(食品)の『くん』の字と同じじゃないかと、辞書を買ってから非常に萎えたんですけど、これは大丈夫でした。
『くんせい』(食品)は、『燻製』と書くのが一般的で、『薫製』は代用字のようです。
私が辞書を買うまでに至った感動は、無事守られました。


さて、『薫風』も『光風』も風の呼び名なんですけど、三月、季節的に近いのは『光風』の方です。
三月は春でしょうか。
私としては、桜が開花した頃に使ってみたい言葉です。
これ見よがしに光風がどうたらとか、書きたいですね。
でも何か、適当に使うのは勿体なくて、言葉を考えているうちに春を逃しそうです。
春、すぐに終わるから。
薫風も、初夏っていつ?とかやってるうちに、書く機会を失うと思います。
夏、あっという間に本格化するから。

それで、え?もう秋?とかやってると、ブログの更新もこのように、半年以上空いちゃうんですね。
一年早くない?


以上です。

   

明日の飯はある


もう思ったよりも生きたかなって思う
別に何もない
毎日そこそこ楽しいし、普通に笑って、それこそ希望と共に目覚めて、1日に満足して寝てる

その上で、生きてることないかって思う
死んだって良くない?と思う


理解できないだろうか
そうだな
思い出が美化されるように、死こそ正義だと思っていた頃が美しく蘇るような


感じてしまったことってのは取り返せないんだなって思う
死のうと決めた瞬間から、やっぱり人は死ぬんだよ
持論なんですけどね


ライオンの群れに飛び込んだカエルは、カエルとして一生を終える
それが幸か不幸か、誰にもわからない
ライオンはカエルを理解しないし、カエルはライオンを理解しない
自分がライオンなのかカエルなのか、誰がライオンでカエルなのか、それすらも知らない
もっと言うと、本当はライオンもカエルで、カエルもライオンなのかもしれない

突き詰めると物事はひとつになってしまう
でも、私はカエルで、その他はライオンなんだ
感じたことが全てなので


私は自殺が認められるべきだという持論を、魅力的に展開することができると思っているけれども、だからこそ致しません
私は生きていくべきだし、人はみんな、命を常識的な観点から全うすべきでしょう
それで良いんじゃないですか
そうでしょうよ


ところで、これは滑稽な話なんだけれども。
明日の飯の心配をし過ぎると、人によっては心を病んで、命を絶つようですよ
心を病むと言うよりか、命を病んだんでしょうか
それにしても、明日の飯の心配をするなんて、生き物として実に健気ではないですか
今日の飯がなくなって死ぬのではなくて、明日の飯の心配をして死ぬのですよ
今日の飯はあるのに、死んでしまうんですよ
こういうのを可愛いと言うのでしょう
明日の飯の心配もしない人間なんて、私に言わせてみれば、全く可愛くないですよ
可愛くなくて結構だとおっしゃるでしょうけれども
その通りですね
可愛くない方が良いと思います
明日の飯のことばかり考えていると、自分を食ってしまいたくなるのでね
食っているのか食われているのかわからなくなって、食えないなら食うしかないのかと思って、食うっていったい何なのか、何で食わなければならないのか、食わなければどうなるのか、誰か食ってくれ、神でも仏でも何でも良いから食ってくれ、食ってくれれば食わずに済む、食えないのなら食ってくれ、食えぬ程愚かで、また食われぬ程不味いのか、そういう人間はどこへ行くべきなのだろうか、目の前の飯は誰のためにあるのか、これを食えば良いんだろうけれども、これを食っても、明日の飯の心配はなくなることはなくて、これはもうやっぱり食われてしまいたい、などとこう、食うか食われるか、それをたった一人で堂々巡りする羽目になりますのでね
もしかしたら、目の前の飯を食わなければ、明日の飯を心配することはないのかもしれない
今日の飯を未来永劫、明日の飯として置いておけば、明日の飯の心配はいらないのかもしれない
そうして明日の飯をじっと眺めて、やがて異臭を放つようになり、虫が集り、暫くすると皿だけが残り、それでも食ってはいないわけだから、明日の飯の心配をする必要がないことに涙を流して喜んで、そのまま餓死していくということは、どうですか
自殺になりますか
私には何とも言えないですね
現実的ではないものですから
ということは、明日の飯の心配をして首を吊る方が現実的なのかってね
随分と現実的でしょうね



何が言いたいかって、別に何も言いたくないです
考えるってのはロクでもねえなって
感じたことってのも、やっぱ全部嘘かなって
てことで明日を元気に生きています

  

悲観することなかれ


学校というものがある。

学校、良いんじゃない。
同じ歳の子らがたくさん居て面白いし、一生の友なんて出会いもあるかもしれない。
好きな子ができれば毎日がドキドキ。好かれることだってあるだろう。
遠足、林間学校、修学旅行、友達と過ごすそれらの時間は格別に楽しい。
絶対忘れられない思い出になる。



でも、思うのだ。
行きたくないなら行かなくて良いんじゃない?と。

躍起になって学校に行けだの来いだの言う人が私は不思議でならない。
何故?何故学校に行かせたいの?
何故学校に来て欲しいの?


みんな行ってるから、と言うならじゃあ少数派に属するということですね、で終わりじゃないかと思う。
多数派に属せないんだからとっとと諦めてしまえば良い。
タイミングが来たらまた多数派に仲間入りすれば良いし、来ないならずっと少数派としてやっていけば良いだけである。



一番いけないのは多数派になれなかったことを悲観することだ。
何を持っているか知らないけど、手か足か少し賢い頭か他に何かあれば別にどうだって生きていけるだろう。
学校に行かなくなっただけで全てが崩れるなんてとてもおかしな話である。幻想だ。
木を見て森を見ずならぬ、森を見て木を見ず、というやつじゃないだろうか。



多数派の中で流れに任せて生きていけるならそんなに楽なことはないのだろうけれど、そこに居るのが苦痛なんだから仕方あるまい。
家から追い出されて知らぬ存ぜぬと扱われたとして、それもまぁ仕方ないだろう。
世における少数派の扱いなどそんなものである。


それが嫌なら学校に行けば良いし、仕方ないと思うなら学校なんか行かなくて良い。
無鉄砲でも何か堂々としていれば良いのである。
学校に行かないことを悲観してめそめそしてるぐらいなら、真昼間に外を闊歩すべし。
人に後ろ指さされて馬鹿にされて、それが快感になった頃にはもうどうしようもない人間になっていると思うけれど、どうしようもない人間、万歳。素晴らしい。完成形、完全体である。



行きたくないから行かない、これ以上自然なことかあるだろうか?
ありのままってやつだ。
そういう人間に生まれてきたんだからそれが素晴らしいに決まっている。
悲観することなど何もない。
学校なんか行かなくても別に生きていける。



笑えるように生きてきた人間が勝つのではなく、笑って生きた人間が勝ちである。
世の中はちょろい。
一番厳しいのは自分自身だ。
それを破ってこその、己である。


  

非常識の時代


いろんな考えがあると思うけど、私は選挙に行ったことがない。
そんなの自慢できることじゃないだろう、と言われるだろうけど、その通り。
でも自慢できないことでもないと思っている。
もっと言えば、自慢ができようができまいが関係ないので、どちらでも良い。


私が何故選挙に行かないかというと、偏に無駄だからである。
候補者です、なんてずらずら並べられて公約なんか語られたって、人となりもわからない奴に票を入れる気にもなれない。
どうせくだらないことやらかすなり重箱の隅突かれるなりして辞職だの何だのされるぐらいなら、最初から票なんて入れない方が賢いかなとも思っている。
こんな馬鹿に票を入れたのか、なんて自己嫌悪に陥りたくないので。
そういう気持ちが勝るぐらい、無駄だと思っている。


投票率が低いと有権者の声が反映されない、なんてことも言われているけど、投票したって恐らく反映されていない。
特に、若者の投票率が低いことが問題とされていて、そんなんじゃ若者を蔑ろにした政治が行われるぞ、という意見をよく聞くが、投票率が高くてもたぶん蔑ろにされると思う。
若者は無力だからである。
投票率が上がれば力が手に入るのか?とてもじゃないけどそうは思えない。
現に、選挙権年齢は憲法改正なるか否かというこのタイミングで18歳に引き下げられた。
これは若者の力を認めてのことではなくて、無力で馬鹿で洗脳しやすいから如何様にもなると思われたのではないかと思う。
他の先進国はとっくに未成年に選挙権を与えてるから〜なんてのは当然理由じゃないだろう。
単に、他もやってるし良いよね?という程度の意味しか持っていないと思う。

若者の無力感、という言葉がすでに若者の無力を煽っており、問題だなんだと言っておきながら都合が良いと思っているのは確かだろう。
若者に力なんか持たれたら邪魔である。


若者に力が無いことを見越して行われる選挙に若者が投票に行くなんてそんな馬鹿げた話があるか。
SEALDsのような純粋故の馬鹿は「投票に行こう、政治に関心のない若者は駄目だ!僕たちは政治に関心があるお利口さんです」なんて思っているのだろうけれど、本当にただの"お利口さん"で、こういう馬鹿は扱いやすくて最高だ。
持ちつ持たれつなのか知らないけど結局共産党あたりに利用されているじゃないか。
まぁ利用価値があったのか果たして怪しいようだけれど。

ところでSEALDsの誕生は、大人が口酸っぱく「政治に関心を持て!投票に行け!」、あるいは「政治に関心があるなんて賢い!投票に行くなんて偉い!」と言ってきた結果だと思うのだが、どうだろうか。
これは犠牲と言っても良いんじゃないかな。
元々、政治に己の生活を脅かす程の関心を持つっていうのは権力者か社会的弱者のどちらかであることがほとんどだと思うので、無力な若者が政治に関心を持ち始めることは必至だったのかもしれない。
しかし、何というか気味の悪いもので、SEALDsの政治への関心っていうのは社会的弱者などからくるものではなくて、本当に純粋故の馬鹿さから来ているような気がするのである。結果、年寄りに媚を売る形となった。
純粋な馬鹿とは社会的弱者である、と言われたらもう何も言い返すことはできないが。




話を戻して、年寄りに力があるのも投票率が高いからなどではなくて、日本をここまで作り上げてきたという自負があるからに他ならないと思っている。
選挙は茶番、洗脳である。
最初から結果は決まっている。どうせ公約も守られない。
民主主義を謳うなら投票率は高くあるべきなのかもしれないが、それ以外の意味はない。


選挙に行くべきではないとは思わないが、選挙にわざわざ時間を割く気にはならない。
行くべきだと思っている人が行けばいい。
選挙権、なので。


若者は、お利口に投票になんか言って政治的に利用され、金もなく、仕事もなく、優遇される年寄りを見て嘆き、悲観し、諦感している場合ではない。
力があれば自ずと国も若者を無視できなくなる。
政治的無力から本当の無力になっては駄目なのだ。
求めるのではなく、認めさせるということだ。


自殺者が年間3万人以上も出るような国はどうせ間違っているので、それらしいことを言われても気にする必要は全くない。
常識なんてなくなっちまえ。


(7/21 細かいところを編集)
    
プロフィール

ちー

Author:ちー
1993年夏生まれ 女
だらだら生きてます。

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